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随想録その1「なぜ加賀象嵌の道に進んだのか」

Facebook、Instagram、ホームページとやっているとブログの役割が段々と薄くなってきてしまい、何かいい方法はないかと考えた結果、こちらのブログではちょこちょこと随想録のようなものを書こうかと思います。

記念すべき?第一回は、色々な方によく聞かれる「なぜ加賀象嵌の道に進んだのか」についてです。


 物心ついた時から、金属が好きでした。これに関して理由を問われると非常に困るのですが…。
アクセサリーは勿論の事、スプーンやフォークなどのカトラリー、工具…金属製品ならなんでも目にすると胸がワクワクしておりました。
今思えば、中学校でブラスバンド部に所属し、一番パーツの多いホルンという楽器を選んだことも、ここに由来するのかもしれません(笑)。
高校生の時は軽音部に所属し、ろくに練習もせず下手くそだったエレキギターですが、ペンチや六角などの工具を使う弦の張り替えだけは、嬉々としてやっていた記憶があります。
音楽が好きで所属していると思っていた部活ですが、もしかしたら違ったのかも…(苦笑)。


 進路を決める高校2年生の時、どうせならば金属製品に絡んだ仕事がいいなと思い、漠然と進みたいと思っていた金沢美術工芸大学(以下、金美)の「工芸科」か「製品デザイン科」に進むか非常に悩んでおりました。
「工芸科」は制作がメイン「製品デザイン科」はデザインがメイン。(と、当時は思っておりましたが、実際に美大に進んでみると、製品デザイン科も在学中は制作ばかりの科でした笑。)
父の友人の(金美OB彫刻作家)村井良樹さんに相談したところ「金属が好きなら『加賀象嵌』なんてどうだ?」と教えていただいたことが大きな転機となりました。
そして父の恩師(金美OB彫刻作家)野畠耕之介先生がそれならば…とご紹介くださったのが現在の人間国宝、中川衛先生でした。


 さて、話は少し過去に遡ります。
何故、父の友人、知人に金美のOBが多いのか…。父は石川県立工業高校の出身で、父が在学時は美大への進学率が大変高い高校で有名だったそうです。
自ずと父の友人たちは金美OBばかりに…。この環境は、私の人生に非常に大きく影響していると思います。子供の頃から金美が身近な存在でした。
 影響というと、通学路の影響も大きいですね。現在の21世紀美術館がある場所は美術館ができる前、幼稚園から中学校までが建っており、私はそこに幼稚園から学校が移転する中学2年までの10年間通っておりました。
周りには兼六園や武家屋敷などの歴史的観光地があり、通学路には工芸品のお店が今も当時も変わらず、ずらりと建ち並んでおります。
そういったものを毎日目にしながら登校しておりますので、世間一般の人に比べると、工芸という世界が非常に身近にありました。
おそらくこの基盤がなければ、最初に「加賀象嵌」という言葉を聞いても、気にもならずに無視していただろうと思います。


 話を戻します。野畠先生のご紹介で中川先生の工房にお邪魔すると、中川先生は加賀象嵌のかの字も知らない私に、工程や加賀象嵌の置かれている現状など、非常に丁寧に説明してくださりました。
要約すると「地味で根気のいる作業な上に、後継者が少ない。」という内容でしたが、これが私の胸に非常に響きました。
昔から、とにかく地味な作業が大好きだったのです(笑)。
そして後継者が少ないという言葉。「私が守らねば!!!」と妙な使命感に駆られました(笑)。
その頃はまだ中川先生が人間国宝になられておらず、金美で工芸科彫金コースの教鞭を取られていらっしゃいましたので、私の悩みの霧は一気に晴れ、進学先どころか将来の道まで決まってしまったのでありました。

 それから気付けば20ウン年…。作品を制作する度に納得いかず、次の作品こそは!と続けていたら、今になっていました(苦笑)。
恵まれた環境だったような気もしますし…逃げられない環境だったような気もしますが…
でも加賀象嵌に出会ったことは運命だったのだと感じています。
勿論途中何度も挫折し、やめてしまおうかと思ったこともありますが…そのお話はまたいずれ、思い出したら書きたいと思います。


というわけで随想録その1「なぜ加賀象嵌の道に進んだのか」はこれにて終了。
その2は何について書きましょうかね。楽しみにしていただけますと嬉しいです。


by pa-pen | 2021-03-18 20:22 | 随想録 | Comments(0)

金沢の稀少伝統工芸である加賀象嵌のお話を中心に、その他趣味のお話もちょろちょろと…。


by pa-pen